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岡山市 うめだ歯科の院長 梅田 洋一郎をもっと知っていただくために

岡山市 うめだ歯科の院長 梅田 洋一郎プロフィール

岡山市 うめだ歯科の院長 梅田 洋一郎 昭和43年 岡山市に生まれる
昭和49年 岡山市立伊島小学校入学
昭和56年 岡山市立京山中学校入学
昭和59年 岡山県立岡山操山高校入学
昭和63年 岡山大学歯学部入学
平成6年  歯科医師国家試験合格
平成6年  岡山大学歯学部大学院入学(口腔外科第二講座)
平成8年  岡山市中山下にて開業
平成18年 岡山市表町にうめだ歯科クリニックとして移転開業

子供時代のこと

小さいときから、おとなしい子供でした。幼稚園ではしかられたことが無く、心配した?母が何か悪い事をして怒られてみなさいと言っても、そんなことは出来ないよと言うような子だったようです。



粘土や折り紙で遊ぶのが好きでした。自分で何か作るということが楽しかったようです。手先は器用だったようで年長組の時、粘土で遊んでいて、その年の干支で家に飾ってあった置物を思い出して龍を作ったら、先生が他の組の先生を呼んできて見せ、その後しばらく幼稚園に展示されました。確かに龍の鱗まで作り、前足には玉まで掴んでいる力作でしたが、子供なので置物と同じように作っただけなのになあと思っていました。

祖父、父と父方の兄弟3人がみんな歯科医の一家の長男として生まれました。けれども一度も歯科医になれといわれた覚えはありません。父が絶対その言葉を口にするなと母にも言っていたようです。父も祖父からそうされたのか、また反対に強制され嫌だった思いがあるのかはわかりません。でも実際に僕は歯科医になっているので両親の作戦勝ちでしょうか。すごくなりたいと思ったわけではなく、何となくなってしまったという感じです。

でも今考えると、なって良かったと思います。それは何よりこの仕事が好きだからです。

歯学部受験

高校時代たいして勉強せずに3年間が経ってしまい、あたりまえですが奇跡は起きず浪人生活を送りました。それも一年で終わったから言えるのですが、今思い出せば楽しい時間でした。一浪して地元の国立大学の歯学部に入学しました。医学部に行くことも考えないではなかったのですが、よりハードルが高くなるので結局歯学部を受験したのです。

大学時代



トレンディードラマ全盛の時代で大学に入ったら毎日遊べるものだと思っていました。確かに1,2年はサボれるだけサボって友達と遊んでいました。ところが3年になり専門課程が始まるとサボるどころか実習を一日でも休むと留年するというような雰囲気で、慣れるまではかなり大変でした。忙しい時には深夜帰宅し風呂に入ろうと湯を出したまま気が付くと疲れ切って床で寝てしまっていたというようなことも結構ありました。

父への反発と大学院進学

そんな僕も無事6年間で卒業でき、その後の進路を決めないとならないときがきました。当時は、大学がもっともレベルの高い歯科医療を行っていると思っていたため、開業医に勤めたり、ましてや実家に戻り父と一緒に働くことなど考えもしませんでした。そして大学でしか出来ないことは何かと考え、口腔外科を専攻しました。

その当時の僕は父のことを、どうせ古い技術でたいした事なんかやってないだろうなぁと思っていたのです。どんな診療をしているのか知らないのにもかかわらず。もっといろいろ新しい技術を取り入ればいいのにと考えていました。家では時々カルテを見るぐらいしかしない父に反発していたのかもしれません。もっと最新技術を取り入れ、実際の臨床をいろいろ教えてくれる父親像に潜在的に憧れていたのかもしれません。でも実際にそうされたとしても、素直に聞くことなんか当時の僕には出来なかったでしょう。

父の死

大学院に進学して、2年目の正月、旅行先で父が心筋梗塞により急死しました。

僕は一人実家に残っており、母からの電話で目が覚めました。現実感の無いまま身支度を整え、新幹線に飛び乗りました。帰りは父の亡骸を後ろに載せた車で母と帰ってきました。その道中の事はほとんど覚えていません。家に帰り着き、棺に入った父を部屋まで運びながら、こんな姿で帰ってくることになるなんてと思っていたのは、なぜか鮮明に覚えています。それからの数日は葬儀の準備やら手続きなどで何をしているのかわからない状態でした。

突然の開業

正月明けの一月五日から梅田歯科は診療を始める予定でした。もちろん予約も入っており、とりあえず歯科医師免許を持っている僕が当面の診療をすることにしました。大学院で時間の融通が効いたこともありますが、医局の教授の配慮でした。

来院された皆さんは、正月明けたら急に父ではなく僕がいて驚かれ、一人一人に父の死を説明し、その日の診療を行っていきました。新聞の訃報欄で見たとわざわざお参りに来られる方も結構おられ、父はこんなにも皆さんに頼りにされていたのかと僕の知らない一面を亡くなって初めて知りました。

最初は、来院された患者さんの治療をして帰ってもらうのが、精一杯でした。
言葉は悪いですが、毎日何とかこなしているという感じでした。診療方針もやり方も違う僕に変わって戸惑われた患者さんも多かっただろうと、今では思います。が当時はそんなことを考える余裕もなく、日々がどんどん過ぎていく様でした。父の代から通っていただいている方は今でも多く本当に感謝しています。

最初の壁

歯科の場合は口の中のことは、口腔外科や矯正科など特殊な科はあるけれど、ほぼ全て任されているので歯車として働いているという感覚はなく、やりがいはすごくあるのです。がしかし、その分治療が難しい場合にも誰も助けてくれないので、一人悶々と悩むことにもなり易いのです。

開業して最初に悩んだのが、入れ歯でした。他の治療と違って良い悪いがはっきりし、これはだめだと思ったら、入れてもらえないからです。そこそこの結果は出せるのですが、それを治療する前に今回はこのぐらいまで前の入れ歯より良くなるという判断がつかなかったのです。やってみないと、良いのか悪いのかわからないのでは、自分が治療して良くなるのかどうか自信がもてないのです。

特に歯茎の土手が痩せてしまっている人の入れ歯は、誰がやっても難しい。そこをいろいろ工夫していくのです。今ならわかりますが、ポイントがいくつかあってそれが良い入れ歯とそうでないものとの差なのです。

Kさんはいまでも難しかった人の3本の指に入るぐらい難しい入れ歯でした。
入れ歯の治療というものは新しく作るときで約4〜5回の来院と、作製後の調整で1〜3回程度が普通です。しかしKさんの場合は通算100回を越える通院をしていただきました。

Kさんのお口の状態は上下とも入れ歯を支える歯茎の土手がすっかり吸収しておりぺったんこになっているのです。そのため入れ歯が安定せずお口の中で動き、傷が出来て痛みが出るという症状でした。

毎日毎日入れ歯の調整をしても次の日にはまた来院され「先生、痛いんじゃぁ。」と言われるのです。その繰り返しで「これは普通に入れ歯を作ってもダメだなぁ」と思うのにさして時間はかかりませんでした。

しかし「じゃあどうすればいいの?」と思っていたところに後述するM先生との出会いがあり、いきなり型を取って入れ歯を作るのではなく、まず今までの合わない入れ歯での狂った左右、前後のかみ合わせのバランスや入れ歯の床の形をいい状態に整えるリハビリ用の義歯を作り、それを実際に使っていただきながら調整していく方法を教えていただきました。

その入れ歯が痛いところも無くなり、問題が無くなればそれと全く同じ形の最終義歯を作製するのです。これだと仕上がった後に痛くて調整ということはまずありません。

Kさんの場合はリハビリ用の入れ歯で3〜4ヶ月は調整しました。その甲斐あってその後に作製した最終義歯は現在まで3年あまり問題なく使用していただいています。

現在85歳になられているKさんが自転車に乗っている姿を時々お見かけしますが、心の中で「Kさん、入れ歯がうまくいって良かった」とつぶやいている自分を発見します。

恩師との出会い

そのKさんの入れ歯で四苦八苦していた時、M先生と出会いました。というより無理矢理紹介してもらいました。

大学時代の医局の先輩が技工士さんから入れ歯のうまい先生がいると聞いて、教えてもらい、頼み込んで見学に行っていました。その先輩からM先生というすごい先生がいるんだと何回も聞かされていました。その度に僕も一緒に見学に連れて行ってくださいとお願いしていました。

何度もお願いしていたある日よっぽど切羽詰まった表情をしていたのか、先輩が今度聞いてみてやると言ってくれました。実はその先輩もまだ自分が見学に行きだしたばかりでなかなか言い出せなかったらしいのです。

初めて一緒に見学に行かせてもらう前には外見はその筋の人みたいでビビるけど、ホントは怖くない、いい先生だと車の中で聞かされました。実際、確かに厳つい先生でした。以前はパンチパーマにしていたらしく、その当時の写真ではまさに本物でした。

そうこうして僕も三宅歯科に見学に行きいろいろ教えてもらい、あげくには診療後夕食をM家の皆さんと一緒に夕食をごちそうになり、いろいろ含蓄のある教えを受け、深夜帰宅するというパターンで何年もお世話になりました。本当にこの出会いが無かったら、僕はどうなっていただろうかと思います。勝手にですが、今では家族同然で、三宅先生のことはある意味父親のようにも思って、仕事以外のことも相談させていただいています。自分が同じ事を出来るのかと考えると、M先生には感謝してもしきれないし、足を向けて寝られません。

インプラントとの出会い

はじめは入れ歯を教わりに行き、実際手取足取り教わって、一度などうちの診療室まで来てくれて一緒に入れ歯の治療を診てくれたこともあったのです。そうやって僕も入れ歯に自信がついていくのですが、そのM先生が「所詮入れ歯は入れ歯。インプラントの方が格段によく咬める。」と言うのです。まるで自分の歯がもう一度生えたようにと。

大学で口腔外科に入局し他院から送られてくるうまくいっていないインプラントを診てきていたので、最初はその言葉を信じられませんでした。しかし、先生のところで年間200本行われるインプラントの治療を見学し、治療された患者さんにも接するうち、「現在は材料も技術も進歩し成功率も90パーセント以上になっている。」という言葉も信じられるようになり、これはぜひとも拾得しなければならない技術だと自然に思うようになりました。



そしてM先生と仲間の先生に混じって、先生の懇意にしているドイツのインプラント協会の創始者Dr.グラフェルマンの診療室や当時の会長のDr.ラングのところで見学と研修をするため、医院を休診にしてドイツを訪れました。

M先生は僕と歳が二周り近く違うのだけれど、本当に勉強熱心で新しいことにもどんどん挑戦される先生なのです。その影響を受け、僕も数々の講習会、勉強会に参加するようになりました。一日数万円ぐらい掛かり半年、一年コースのものになるとびっくりするような金額になるのですが、自分に投資する時期だと思い休みを潰し、お金も頭も使いがつがつと貧欲に勉強しました。知らないことがわかるようになるのが、本当に楽しかったし、どんな場合にも対応出来る知識と技術を身につけたかったのです。

インプラントの効果

Sさんは当時70代の女性でした。上下に入れ歯を入れておられました。それは見ただけでわかる、お金もかかったであろういい入れ歯でした。お口の中に入れた状態でも入れ歯として申し分無いものでした。

しかしAさんは、「入れ歯でなく食事ができるのならインプラントというものをして欲しい。」と言われました。

専門家である僕の目から見てもなんの問題のない入れ歯でも当たり前ですが、所詮自分の歯では無かったのです。機能的にも不自由はなくうまく使いこなされているのですが、不自由がないということと満足とは違ったのです。

当時僕はまだインプラントを取り入れたばかりでした。サイナスリフトという上顎の骨が歯周病で破壊されインプラントを入れる余裕がない場合に行う手術もSさんに初めて経験させていただきました。

都合10本のインプラントを使用し、上下とも入れ歯を使う必要が無くなり、その結果としてSさんから「何でも好きな物が食べられて満足しています。」といっていただくことができました。その時に僕も「インプラントは絶対いい!入れ歯とは全然違う!これは一度失ってしまった歯をもう一度取り戻すことが出来る技術だ」とその効果を確信しました。

現在,Sさんは80歳を越えてられていて、年に1〜2回来院されお口を拝見いたしますが問題なく使っていただいています。

JIADSとの出会い

そんな日々の仕事に没頭している毎日でしたが、常により技術を高めたいという気持ちを持っていました。そんな中でJIADSという研修グループと出会いました。

JIADS(The Japan Institute for Advanced Dental Studies)とは日本先進医療研修施設の略称であり、 その本部(IADS)はアメリカのボストンあります。IADSはDr.クレイマー、Dr.ネヴィンズが主宰する歯周病と補綴のスペシャリストのための機関であり、歯周病と補綴はもちろん、インプラントの臨床研究と教育において、全米のリーダーシップをとっている卒後研修機関です。

JIADSで歯周病の知識と診断、治療方法、その後の補綴(かぶせなどの)治療などを学び、その世界レベルの治療と長期にわたる永続性を求めるコンセプトに傾倒しました。最初に見たときにはあまりにもレベルの高い治療でどこの星の治療なの?という感じでした。そして猛烈に自分もこういう治療が出来るようになりたいと思い、ほとんど講師の先生の追っかけ状態で全国各地で行われる講習会に出席しました。そうしているうちにいろいろな先生にかわいがってもらえるようになり、今でも月に2回大阪で開かれているJIADSの勉強会に参加させていただいています。

講習参加後もボストン、ハーバード大学での研修や、フロリダ、オーランドでのインプラントのミーテイング、4年に一回ボストンで開催される歯周病、補綴の世界のトップが集まる学会PRD、サンフランシスコでのアメリカ歯周病学会、ロスでのUCLAでの研修など度々海外で世界の最新の情報に接する機会を持つことが出来ました。

出来ることなら、一年に一回は海外で開催される学会や研修に参加し、日進月歩の新しい治療方法や材料の知識を手に入れていきたいと考えています。

まだまだ発展途上ですが、少しでも世界のレベルに近づき、それを皆様に提供できるようになりたい。そして一度した治療が長く持ち、再び治療をし直さなくてもいいようにということを常に考えています。またいらしていただく方に悪くなってから処置をするのではなく、悪くならないように、健康を維持、増進する為に予防を提供することが出来るうめだ歯科クリニックになりたいと考えています。

そして自分の歯に高い価値観を持っている、健康意識の高い方々と共に歩んでいきたいと考えています。

岡山市 うめだ歯科 「歯医者」といえば、怖い、行きたく無い場所の代表といわれることが多いですが、僕のことを知っていただき、すこしでも皆さんとの距離が縮まればと思いこのプロフィールを作成しました。

長々と書き綴りましたが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

岡山市 うめだ歯科の院長 梅田 洋一郎